ヨーロッパ旅行

旅行計画

旅のルート

旅のルート

 息子が志望の公立高校に入学したら、家族でヨーロッパ旅行に行くことを約束していた。大阪府の高校の学費は、諸費用も含めて、私立高校だと3年間で250万円、公立高校だと65万円かかる。その差を旅行費用に充てる算段である。期間は2週間から3週間。高いホテルには泊まらない。有名レストランにも行かない。移動はレンタカーを使い、興味のあるところでは、ゆったりと時間を使う。そしてこの機会にヨーロッパのアマチュア無線の友人のところも訪問する。

 受験前から、おおよそこのような計画を立てていた。息子は何とか志望高校に合格し、2005年の夏、ヨーロッパ旅行が実現する運びとなった。しかし、今度は野球部に所属する次男が、「夏休みは試合や練習があるので行かない」と言い出す。その結果、家族は崩壊し、長男と2人で旅行することになった。

 私が最初の2週間の旅程を組み、そこに息子がイタリアでの1週間を追加し、都合3週間の旅行となった。次に航空会社をどこにするか、ホテルの予約をどうするか、どのレンタカーを手配するかを決めなければならない。

 航空運賃は、航空会社によって、また時期によって大きく異なる。2月や3月だともっとも運賃の高い日本航空やヨーロッパ系の航空会社でも、往復7万円くらいでチケットが手にはいる。それが7月8月だと20万円を超える。ヨーロッパ系の航空会社の中でも、オーストリア航空やフィンランド航空はそれより少し安い。東南アジアの航空会社は、夏休みの時期でも12~15万円くらい。一度その国の首都で乗り換える必要があり、南回りとなるので時間的には長くかかる。けれどもその国でストップオーバーすることができる便もあり、考えようによっては東南アジア観光ができるともいえる。韓国の大韓航空、アシアナ航空は、東南アジアの航空会社とオーストリア航空、フィンランド航空の中間くらい。

 現在なんと言っても安いのは、中東の航空会社と中国の航空会社である。中東の航空会社は、日本便を新しく始めたところもあり、今回は時期が合わずに利用することができなかったが、7月はじめまでカタール航空が、関空発カタール経由ヨーロッパ往復で39000円というキャンペーンをおこなっていた。中国の航空会社も安い。中国国際航空と中国東方航空の2社が関空からヨーロッパ便を飛ばしている。中国国際航空は北京経由、中国東方航空だと上海経由である。

 私たちが今回利用したのは、中国国際航空である。ロンドンに到着し、ローマから出発するオープンジョーの航空券だ。北京でストップオーバーもできる。値段は92000円。関空から北京まで3時間。北京からロンドンまで11時間のフライトである。日本からロンドンへの直行便の12時間と比べて合計で2時間余計にかかるが、途中で北京観光ができるのが魅力である。4月の終わりに旅行代理店に連絡を入れて、7月24日関空発北京経由ロンドン行き、8月14日ローマ発北京経由関空着の便を予約した。北京に2、3泊したかったのだが、当時日中の国際関係が悪く、結局北京は1泊で我慢することとなった。

 先進国の航空会社しか利用しない人もいるが、私は会社にこだわらない。サービスの違いがあっても、たった12時間程度、それで10万円の値段の開きがあるとすれば私は安い方を選ぶ。保障が心配なら、旅行保険を多めにかければ問題ない。飛行機は滅多に落ちない乗り物である。

 ホテルは全く予約をせずに現地で調達しようかとも思ったが、インターネットであらかじめ予約しておいた方が遙かに安い。正規料金の半額くらいで泊まれるホテルもざらにある。そこで中国、イギリス、イタリアのホテルをインターネットで予約した。それ以外の国では、レンタカーを使用するので、道中気に入ったホテルがあれば、飛び込みで宿泊できる。またアマチュア無線の友人がホテルを予約しておいてくれたり、時には友人宅に泊めてもらうことも可能である。

 レンタカーは、絶対に日本で予約すべきである。現地で借りるより格段に安いし、車のクラスもあらかじめ選ぶことができ何よりも日本語で予約できる。レンタカーを借りる国と返す国が異なると料金が高くなる。また同一国内で借り出し返却する場合でもイギリス、フランス、ドイツ、スイス、イタリアと国ごとに価格が異なる。フランスで借りてフランスで返すのが一番安い。フランスのどこで借りて、どこで返却しても乗り捨て料金はかからない。また途中、国をまたいでドライブすることも問題ない。ハーツとエイビスでは料金が異なったので、私は、安いエイビスレンタカーを予約した。

北京の物価は大阪の5分の1以下だ

故宮博物院

故宮博物院

 北京にはCA162便で現地時間12時10分に到着した。北京空港の入国はあっけない。荷物の中に無線機を隠し持っていたので、少し心配したのだが、全くチェックされることはなかった。早速タクシーで松鶴大酒店に向かう。酒店や飯店は酒屋や飯屋ではなくホテルである。松鶴大酒店は北京の繁華街の王府井に近く、故宮博物院(紫禁城)にも歩いていくことができる。ロビーも部屋もなかなか広く、立派なホテルだ。それでいてツインで8000円、もちろん朝食込みである。ホテルに着くと、荷をほどいて故宮博物院へと向かった。映画「ラストエンペラー」で紫禁城をご存じの人も多いと思う。えんじ色の甍が延々と続く広大な宮殿である。入場料60元(840円)は1500元程度の月収の平均的中国人にとっては高いはずだ。しかし北京の代表的観光名所で中国人、韓国人、台湾人、日本人、欧米人で大にぎわいである。3時間位はいただろうか。歩き疲れて6時頃ホテルに戻った。

王府井

王府井

 王府井は心斎橋や難波と変わらない。道幅も広くて、歩行者天国なので、大阪以上に広々としている。2008年のオリンピックに向けて街を急速に整備しているようだ。道路を掃除する職業の人も多く、街もきれいで、ゴミも落ちていない。ヘラで道路にこびりついたガムをはがしている人もいた。物価も安く、街のスーパーでビールを買ったが、350ミリリットル缶で30円だった。同じビールがホテルの部屋のミニバーで140円。それでも安い。王府井のデパートで食事をしたが、炒飯85円、餃子85円という値段であった。これならもっと張り込んで、高級料理店で食事をすればよかった。しかし、物価の高いヨーロッパに備えて節約できるところは節約しておこう。

 松鶴大酒店の朝食はすばらしい。インターネットで、あるアメリカ人が、Breakfast is mustと書き込んでいたが、その通りである。数多くの料理が並ぶバイキングだ。トッピングの種類もたくさんある中国粥がとくにおいしかった。卵料理は、客のオーダーに従って目の前で調理してくれる。宿泊客は欧米人と中国人が多い。中国人は金持ちが多いようだ。ホテルの前の駐車場には、ベンツやBMWなどの高級車が多く停まっていた。

 ドイツで知人を訪ねるおみやげに中国茶を買おうと思って、王府井の専門店に立ち寄った。女性店員がにこやかに迎えてくれる。ジャスミン茶を幾つか試飲した。そのたびに中国茶の作法に従って茶をたててくれる。これを買えとか、あれを買えとか押しつけがましいところは一つもない。非常に気持ちがよい。気をよくしてその店で最高のジャスミン茶を買うことにした。100グラム5600円、おそらく彼女の月収の3分の1くらいの値段であろう。お茶を買った後、それをプレゼント用に包装してくれるように頼んだ。日本の百貨店ならマジックのように手早くきれいに包装してくれる。それを期待していたのだが、彼女はそんな包装をしたことがないのだろう。長い時間かかって何度もやり直しながら包装しリボンをかけてくれた。その好意に感激してすこし心付けをと思ったのだが、頑固として受け取らない。タクシーにしてもぼられることは全くなかった。私にとって中国の印象はすこぶるいい。こんなことならもっと滞在日数を増やしておけば良かった。さあ次はロンドンである。

ロンドン到着

 飛行機の中は、ヨーロッパ研修旅行に出かける100名くらいの韓国人中高生の団体と、ロンドンに帰るイギリスのスポーツ選手の団体で満員だった。北京からロンドンまでは11時間。やはり長い道のりである。しびれを切らしてようやくヒースロー空港に到着した。時刻は現地時刻の午後5時。7月はじめに起こったロンドン地下鉄同時多発テロの後で、空港は警戒が厳重だと思っていたのだが、入国審査も税関通過もまことにあっけなく、あっという間に待合いロビーに放り出された。

ウィンザー城

ウィンザー城

 ロビーでは、約束どおりわが友人G4PPKクライブと奥さんのマリアンが私たちを出迎えてくれた。クライブとはもう3年近くEcholinkで交信している。Echolinkとはインターネットを使ったアマチュア無線家同士の交信で、近年は電波伝搬状態がよくないため、ブロードバンドの普及と相まって急速に愛好家が増えてきている。空港を出てロンドン近郊のクライブの家まで30分のドライブとなる。クライブのお宅で、ステーキをご馳走になり、その日は一晩泊めてもらう。翌日クライブ夫妻と一緒にウィンザー城を見学する。ウィンザー城は11世紀の後半ウィリアム征服王によってロンドンを囲む砦の一つとして築かれたのがはじめで、その後何回も増改築され、19世紀初めには壮大なゴシック様式の城が完成する。19世紀後半のヴィクトリア女王時代にはその最盛期を迎えたが、1992年大火災によって大きな被害を受け、ようやく1997年に修復工事が完了し、現在に至っている。

衛兵交代

衛兵交代

 ちょうど私たちがウィンザー城に到着したとき、幸運なことに衛兵交代の時間に当たり、衛兵の行列を楽しむことができた。その他、チャペルや国王の間、接見の間、ダイニングルームなどを見学した。私たちは、ウィンザー城の近くのイートンの街を含めて、そこで半日あまり楽しい時を過ごした。クライブに近くの駅まで送ってもらって、そこから地下鉄とタクシーを使ってホテルに着いた。

 それから3日間はロンドン西部のアールズコートにある3つ星の安宿だ。インターネットで事前予約をしていても1万円以上かかる。物価の安い北京から来た私たちには、ロンドンの物価の高さは尋常ではない。地下鉄1区間400円、ビール一杯800円では大阪の2倍ではないか。そのうえ、地下鉄はテロ警戒で一部不通の区間がある。武装警官が地下鉄の駅を見張り、時には地下鉄に乗り込んでくる。スリルとサスペンスの世界だ。地下鉄の駅も閉鎖される。行きの地下鉄に乗れても帰りの地下鉄に乗れないことがある。たとえば、私たちがバッキンガム宮殿を見学して帰りの地下鉄に乗ろうとした時、行きでは降りることができたヴィクトリア駅は、帰りには封鎖されて地下鉄に乗れなかった。あたりは物々しい警戒である。まことに不便だったが、おかげでロンドン名物2階建てバスに乗って移動することができた。

大英博物館(ロゼッタストーン)

大英博物館(ロゼッタストーン)

 ロンドン訪問の第一の目的、大英博物館では、やはり手荷物チェックがある。しかしさすが大英帝国。物価は高いが、博物館は無料である。結局、1日では見ることができず、2日間通うこととなった。もちろん無料という点も大きな魅力だが。

ロンドンでスリに遭う

 ところで初日の大英博物館の帰り、まことに不快な目にあった。不通区間により動かない路線もあるため、動いている路線の地下鉄は午後の勤めを終えて帰る人たちで混み合っていた。 褐色の肌の小柄なおばさんが、私の横の握り棒に手を伸ばそうとしたり引っ込めたりしていた。此処で気がつかなければならなかった。アールズコートの少し手前の駅で、Excuse meと、このおばさんが私の肩にふれて素早く降車した。その瞬間ズボンの前ポケットが軽くなるのを感じたが、すでにドアは閉まった。なんたるプロの早業、まんまと財布を盗まれた。肩に注意をそらしている間にズボンから財布を抜き取ったのだ。財布は、硬貨がたくさん入っていて、外からでもずっしりと重そうに見えたのだろうが、中身は現金で80ポンド(16000円)くらい。あまり多くなくて助かった。しかし財布の中にはシティバンクのATMカードが入っている。日本の、貧乏だが、100万円くらいならあるという意味でのミリオネア、の一人としては、引き出されるとやっかいだ。

 アールズコートの駅に着いて、ホテルで警察の場所を聞き、早速警察に行く。しかし要領を得ない。「何処で取られたのですか。」「地下鉄の中なら地下鉄の公安へ行ってください。」「被害届もそこで出してください。」あまり頼りにならなさそうだ。ようやくシティバンクのロンドン支店の電話番号を教えてもらう。財布は出てくるはずがないので、公安には行かなかった。

 ところがシティバンクロンドン支店に電話しても、イギリスで発行されたカードでないので、口座番号の桁数や暗証コードの形式が私の持っているカードと異なる。結局、口座のある梅田のシティバンクに電話することが必要になった。仕方がないので、自宅に電話して、自宅から梅田支店に電話を入れ、カードをキャンセルしてもらった。これで今後銀行から預金を下ろせない。息子用に息子の名前でT/Cももってきているが、わずか1000ユーロだ。これからどうしよう。お父さんの権威も失墜である。

 しかし幸いなことに、別にしておいた2枚のクレジットカードは無事だ。これからは財布には現金以外のものは入れるまい。現金も2万円前後しか持つまい。これからの旅はT/Cを非常用として、おもにクレジットカード。そして現金がいる場合は仕方がないのでクレジットカードキャッシングで行くことにした。

便利なカード

 私は国内ではほとんどカードを使わない。短期間でも借金をしたくないのと、いくら使ったのかの金銭感覚がなくなるからだ。しかし、今回は仕方がない。使ってみると意外に便利だ。ヨーロッパはカード社会になっていて、スーパーマーケットでも、ガソリンスタンドでもカードで決済できる。帰ってから明細を調べたのだが、クレジットカードでのレートも悪くない。T/Cが1ユーロ134.4円だった時、VISAのカードで1ユーロ138.5円、クレジットカードキャッシングで現金を引き出して1ユーロ139.5円であった。これだけ見るとT/Cのレートがいいようだが、ヨーロッパでT/Cを換金するのに5%程度の手数料を取られることが多いので、それだと、T/Cの1ユーロ134.4円は141円に跳ね上がってしまう。ひどい場合は、ローマの駅でT/Cを換金しようとしたら、窓口のひどく愛想のいいお嬢さんが手数料16.5%だと言っていた。もちろん両替しなかったが。スキミングに注意すれば、ヨーロッパではクレジットカードは使い勝手がよい。

 またクレジットカードもカード会社によってレートが異なる。VISAと同時期にAMEXも使ったのだが、AMEXのレートの方が1ユーロ当たり2円ほど高い。それに加えてヨーロッパではAMEXは使えない店が多い。ヨーロッパで使うならVISAの方をおすすめしたい。しかも私の持っているVISAは年会費無料だが、AMEXからはちゃんと年会費を取られている。ただし例外として、レンタカーでメルセデスなど高級車を借り出す場合に、AMEXかダイナーズを要求される場合がないわけではない。

グリニッジ

 さて、ロンドンでは、財布を盗まれて暗い気分だったが、グリニッジにも行った。グリニッジはロンドンから郊外電車で30分くらいのところ。王立海事博物館や王立天文台がある。テムズ川には、ティクリッパー、カティサーク号もうかべてある。やはり郊外はいい。ロンドンをでて緑の郊外に行くとのびのびする。グリニッジ王立天文台では本初子午線をまたいで写真をとった。右足は西経、左足は東経である。ロンドンの真ん中はまっぴらだ。暗く肌寒く慇懃無礼のロンドンにいるとクライブには悪いが、早く大陸に渡りたくなった。

フランスで借りた車は韓国車

ドーバー海峡

ドーバー海峡

 イギリスからフランスへは、ユーロスターでトンネルを通ってかっこよく行く方法もあったが、息子と相談してフェリーで行くことにした。本当はフェリーの方がずっと安上がり。フェリー乗船前に出国審査と手荷物検査があった。この方がヒースローでの入国より厳重な検査である。その後すぐフランス入国手続き。これはあっというほど簡単でパスポートにぞんざいにスタンプを押して終わり。ようやく乗船。イギリスのドーバーからフランスのカレーまで35Km90分の船旅だ。

 カレーで予約しておいたレンタカーを借りた。フランス南東部シャンベリーで乗り捨てて11日間44000円。日本から予約しておくと料金は驚くほどやすい。車はクラスBでクーラー付きの小型車、実際は韓国起亜自動車のピカント、しかしこれが燃費もよく快適に走った。韓国恐るべし。ちなみに観光客もアジア人の多くは韓国からだ。個人客あり、グループあり、勤勉に予習しながらヨーロッパを巡っている。英語の言語能力は韓国人の方が上だろう。ちらりと見かける『るるぶ』や『マップル』のグルメ旅の日本人旅行者とは目的意識が明らかに違っていた。まあ日本にそれだけ余裕ができたということかもしれないが。

ヴェルサイユ宮殿

ヴェルサイユ宮殿(正面)

ヴェルサイユ宮殿(正面)

 レンタカーで、夕方ヴェルサイユについた。翌日は1日ヴェルサイユだ。太陽王ルイ14世の宮殿はとても豪華だ。どの部屋をとっても、惜しげもなく費用がかけられている。有名な『鏡の間』はもっと広くぴかぴかしているかと思ったが、それほどでもない。しかし当時、鏡が非常に高価だったことを考えると自慢の部屋の一つだったのだろう。宮殿もすばらしいが、よく手入れされた広大な庭や、かしこに散らばる離宮も見応えがある。マリーアントアネットの離宮と東屋も趣がある。ヴェルサイユは歩き疲れるほど見て回った。

ヴェルサイユ宮殿(鏡の間)

ヴェルサイユ宮殿(鏡の間)

 ヴェルサイユはパリ近郊に位置する。パリはどうしよう。私はパリを2度訪問したことがあるし、そのうち一度は1週間ルーブルに通い詰めた。パリには見所も多いが、ロンドンの経験で大都会はいやになっていた。息子にとってパリは初めての都市だが、相談の上パリはパスすることにした。都会のごみごみした空気を吸うくらいならと、パリは通過だけにして、ランスに向かった。

ランス

ランスのホテルから

ランスのホテルから

ランスのカテドラル

ランスのカテドラル

 ランスは、パリの北西120Km。白ワインとカテドラルで有名だ。ゴシック様式のカテドラルは見事である。ランスのノートルダムは小ぶりだが、パリのノートルダムより気品があるように思えた。シャガールが制作したというステンドグラスもしゃれている。ランスの町をぶらぶら歩いて、市民でごったがえすレストランを発見。早速そこで夕食。やはり、食事はフランスに限る。20ユーロ(2700円)くらいでデザートまでのコースが食べられる。前菜もメイン料理もおいしく、量も十分だ。デザートもなかなかいける。カラフに入った当地の白ワインもさりげなく料理にマッチしている。食事に関しては、他のフランスの町でも同様においしかった。

ランダウの6つ星ホテル

DL3BAA

DL3BAA

 ドイツには友人が多い。うかつにドイツに行くというと、あらゆる土地を訪問しなくてはならなくなる。今回はそのなかから、プファルツのランダウとバイエルンのミュンヘンだけを訪れた。

 ランダウのDL3BAAミヒャエルとは、Echolinkで一度話したきりだが、メールを何度もくれて、ぜひ遊びに来いという。ちょうどフランスからドイツに行く通り道に位置していたので、彼の言葉に甘えて、ランダウによることにした。実際ミヒャエルはとても親切にしてくれた。私たちのために離れの一軒家を用意してくれ、数々のすてきな料理に何本かのプファルツワイン、奥さんのマルゴット手作りの自家製デザートでもてなしてくれた。それに引き替え私たちの用意してきたものといったら、日本から持参した「無」と書かれた漢字柄のTシャツだけであった。これは困った。日本に帰ってから「天野酒」の上等なのを一本送っておこう。ミヒャエルとマルゴットの笑顔に送られて、プファルツの6つ星ホテルをあとにして、アウトバーンでミュンヘンに向かった。

 フランスの高速道路は、高くはないにしても有料だが、ドイツのアウトバーンは無料だ。韓国車ピカントはまことに調子よく走る。フランスとドイツでは、日本のアマチュア無線の免許が有効で、車の屋根にマグネット基台で小さなアンテナを固定しておいた。ピカントが、時速150キロで走ると、屋根に止めておいたアンテナは風圧ではがれてしまったが、車のタイヤは路面にしっかり食らいついている。シミーもなく風きり音も静かだ。燃費もいい。これは、レギュラー1リットル1.3ユーロくらいするヨーロッパでは貴重なことだ。

ミュンヘンでのJAIGミーティング

 ミュンヘンでは、JAIG(Japan Amateur in Germany)の創設者のDF2CW壱岐さんと会う。JAIGは、日本とドイツのアマチュア無線家の親睦団体で、500人以上のメンバーを擁する。私もメンバーの一人である。壱岐さんとは日本でたびたびお会いしているが、ドイツまで訪問するのは初めてだ。壱岐さんのお宅を訪問した目的はミュンヘンのJAIGメンバーと会うことはもちろんであるが、もうひとつ壱岐さん宅のEcholinkの開通にあった。しかし、Echolinkに必要なポートを、壱岐さんのルーターに設定することができなかった。予備として日本から持参したルーターにもポートを開けることができなかった。だから壱岐さんはプロシキを利用するほかは、未だEcholinkにでられないでいる。残念である。

JAIGメンバーと

JAIGメンバーと

 壱岐さんのお宅で3日間大変お世話になった。毎日奥さんのエリカさんのおいしい手料理をいただき、最終日には、近くのギリシアレストランで、ミュンヘン在住のJAIGメンバーと、日本で行われたJAIG2000やJAIG2004のミーティング以来の邂逅を楽しんだ。

 ところでミュンヘンを発つ朝、DG2YELギュンターが150キロの道のりを走って午前8時に私たちに会いに来てくれた。ギュンターは合気道5段、私の子どもたちが合気道を習っているせいもあって数年前からEcholinkでよく話をしていた。それにしても1時間くらいしか一緒にいられないのを知っていて1時間半もかけてきてくれるなんて。

 アマチュア無線の友達は本当にいいものだ。King of Hobby とはよくいったもので、初対面でも10年の知己のようである。そして誰と会っても、皆親切で紳士である。世界に一つしかないコールサインという識別符号があるから、自分の素性を偽ることはできないし、共通の趣味による話題にも事欠かない。今まで世界の多くのアマチュア無線家と会ってきたが、気まずい思いをしたことがない。我が家でも今まで何人かの海外のアマチュア無線家が私たちの家族と一緒に庭でバーベキューをし、ときには、純和風の8畳客間に滞在していった。

ダッハウ強制収用所

ドイツ博物館(ツェッペリン号)

ドイツ博物館(ツェッペリン号)

 ミュンヘン滞在中に、ドイツ博物館と、近郊のダッハウにあるユダヤ人強制収容所跡を訪れた。ドイツ博物館は、自然科学に関する広大な博物館で、大英博物館と同様とても1日で見て回ることはできない。4階にDL0DMのコールサインのアマチュア無線局があって11時から12時の間、運用することができる。私も運用させてもらったが、その日はとてもコンディションが悪く、ブルガリアの局1局と交信できただけであった。

ダッハウ(死体焼却炉)

ダッハウ(死体焼却炉)

 またダッハウにはドイツで最初に建設された収容所があり、初期には政治犯が、やがて多くの無辜のユダヤ人が収容されることとなる。ダッハウは集中収容所として、各地から集められたユダヤ人を他の収容所に移送する中継地点としても用いられ、1945年の解放時には67000名もが収容されていた。管理棟、点呼広場、囚人バラック、焼却炉、ガス室(これは使用されなかった)などが見学できる。第一次大戦後からダッハウ収容所の終焉までの、パネル展示や資料展示で当時を再現している。英語とドイツ語による記録フィルムも上映されている。

1933年ユダヤ人著書の焚書

1933年ユダヤ人著書の焚書

 ここは20年以上前に一度訪れたことがあるのだが、その時と比べて展示施設は拡充され、近代化され、記念公園化されている。かつての記念館はもっと小さかったが、記念館に入ってすぐの正面パネルに「これは単なる前触れにすぎない。本を焼くものは、ついには人間を焼くようになる。(Das war ein Vorspiel nur, dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man am Ende auch Menschen)」という19世紀のユダヤ人作家ハイネの言葉が掲げられ、1933年のベルリン大学での焚書の写真と、多くのユダヤ人の死骸を無造作に穴に埋めている写真が、それに添えられていたように思える。今よりも若かったせいかもしれないが、印象は今回よりもずっと強烈であった。現在の展示は、資料に基づく広範な展示であるが、それだけ焦点が拡散され、印象が薄められている気がする。

 自国が加害者である場合に、歴史を直視し、歴史を展示し、歴史を反省することはなかなかできない。ややもすれば、みずからの過去を湖塗し、それがなかったか、あるいは歴史の必然の結末のように見せかけることが多く行われる。イギリスのかつての植民地政策、先住民に対するアメリカ白人の征服の歴史、そしてアジア周辺諸国に対する日本の侵略。歴史を客観的に再認識し、過ちを繰り返さないことが、歴史から学ぶことである。広島の原爆資料館の前の碑にある「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませんから」の「過ち」は私たちに対してだけではなく、すべての人びとに対して繰り返されてはならない。

 ドイツでもネオナチズムの台頭の風潮が見られる。アウシュビッツはなかったと主張する人たちがいる。これらの人たちに対してダッハウは一つの証しなのである。

シンデレラ城

 ミュンヘンからオーストリアのブレゲンツに向かう。ブレゲンツへはロマンティック街道の南側の終焉をすこし走り、ノイシュバンシュタイン城に立ち寄ってから行くこととする。ノイシュバンシュタイン城は最後のバイエルン王ルートビヒ2世の建てた城でディズニーのシンデレラ城のモデルである。20年近く前に訪れた時、到着したときにはすでに閉館時間を過ぎていて入れなかった城だ。さすがに南ドイツ観光の目玉だけあってすごい人出だ。私たちはノイシュバンシュタインに昼前についた。入場券売り場まで人の列ができていて、ようやく1時間後に入場券を買うことができた。入場券を買えばすぐ入場できると思ったのだが、なんとその入場券には16時50分と入場時刻が刻印されている。4時間近く待たなければ入場できない。入場券売り場から城の入り口まで30分の坂道を歩いていったとしても3時間以上の待ち時間である。仕方がないので、昼食をすませて、だらだらと坂道を上っていき、3時間近く階段に座ったり、南ドイツのアルプスの空を悠然と飛ぶハングライダーの群れを眺めたりして時を過ごした。

ノイシュバンシュタイン城

ノイシュバンシュタイン城

 城の入り口のゲートは私鉄の改札口のようになっていて、正しい時間の入場券を入れないと開かない。ようやく私たちの番が来て中にはいった。玄関では各国の音声ガイドを借りることができる。中ではおなじ時刻入場の一団と一緒にさせられ、グループで見学して回る。国籍はまちまちだが、団体ツアーだ。後ろから押しだされるところてんのごとく、40分で城内を通過した。ノイシュバンシュタイン城はロココの傑作といわれるが、太陽王になりたかったがなれなかった田舎の王が、自分のもてる富を城建築の道楽に費やしたような城だ。シンデレラ城のモデルとしては十分であるが、ヴェルサイユとは規模においても品格においても及ばない気がした。

オーストリアは酒飲み天国か

 ブレゲンツではOE9PTIトーマスを訪ねる。ミュンヘンを発つ前にメールでブレゲンツには夕食までに到着するといっておいたのにこれではとうてい間に合わない。ブレゲンツに着いたのは午後8時頃だった。ブレゲンツはボーデン湖の東岸に位置する美しい町である。中世都市としてはすぐ近くのリンダウの方が湖畔に突き出た旧市街の美しさのゆえに有名であるが、ブレゲンツも夏の間に音楽祭が開かれ多くの客を集める。湖畔に沿ってブレゲンツ中央駅に至る美しい道路の脇で、トーマスが車から手を振っている。私のピカントはオレンジ色、マグネット基台で屋根にラバーアンテナが取り付けられている。アマチュア無線家が見ればすぐそれとわかる車である。それにトーマスとは同時に430MHzで話してきているのだ。

 トーマスの職業は煙突掃除屋。煙突掃除屋は人々に幸せを運ぶといわれる縁起のよい職業である。トーマスの家も何世代か前は実際に煙突掃除をしていたのだろうが、現代では暖炉を持つ家はそれほど多くない。それで、現代のトーマスは暖房器具や空調設備を手がけている会社の社長である。煙突掃除の株のようなものがあってブレゲンツ市内の煙突掃除と暖房器具はいっさいトーマスの会社が仕切ることになっているらしい。だから羽振りも愛想もいいし、市内にやたら友人・知己が多い。市内中心部で私の車を駐車する場所に困っていたら、トーマスがたまたま郵便局の窓から顔を出した郵便局の友人に声をかけて、ちゃっかりとその駐車場に止めることができた。

ブレゲンツの無線家たち

ブレゲンツの無線家たち

 トーマスに案内されて一緒にレストランに入った。全く予期しなかったことなのだが、そこには私たちを歓迎するために15人くらいのアマチュア無線家がすでに集まっていた。トーマスが連絡をつけてブレゲンツの無線家を呼び寄せておいてくれたのだ。一度も交信したことのない人、HFで交信していてその時の私のQSLカードを持ってきてくれた人、Echolinkで何度となく交信している人などさまざまである。私たちが到着したのが遅かったので、宴はもう始まっている。半分できあがっている人もいる。ドイツ人とは少し気質が違って、オーストリア人は陽気である。みんなに紹介され、わいわい言いながらビールを1リッターほど飲み、ウィンナシュニッツェルを食べた。会合はその後1時間くらいしてお開きになった。このあとトーマスが予約しておいてくれた別のホテルまで帰らなければならない。車をおいていこうとすると、トーマスは、「大丈夫、僕の後をついてこい」と言う。結局私も酔っぱらって彼の後について運転した。事故がなくて本当に幸いだった。しかし、ホテルに着いた後、飲み直そうと言うことで、結局トーマスの友人の無線家たちと、近くにある行きつけの修道院のケラーで2時頃まで飲んだ。私がダウンしても彼らは平気だったとは、しらふだった私の息子の言である。

OE9PTIのアンテナ

OE9PTIのアンテナ

 翌朝、トーマスが9時に迎えに来て山の別荘に案内された。前方にボーデン湖を望む標高2000メートルのすばらしいロケーション。フルサイズの3エレ八木アンテナとキロワットの無線機。アマチュア無線家なら誰でもうらやみたくなるような設備から、2局の日本のハムと交信し、やがてブレゲンツを後にしてスイスへと向かった。

スイスの山岳氷河

 ドイツのアウトバーンは無料である。オーストリアの高速道路はひと月単位で使用料を支払う。スイスの高速道路は年間の使用料を支払う。私はスイスには3日滞在するだけだ。けれども年間使用料を払ってステッカーを買い、フロントガラスに貼って高速道路を運転する必要がある。とはいえフランスの高速道路と違って、料金所はないので、実際にはステッカーを貼らずに高速道路を利用している外国ナンバーの車も多く見られた。私は、オーストリアのガソリンスタンドでステッカーを27ユーロで購入した。スイスはEUに加盟していない。そこでオーストリアとスイスの国境では入国審査があるかもしれないと思っていた。確かに国境にゲートのようなものが見える。しかし私たちの車は、全く停車することもなくフリーパスで通過した。EU加盟国内、たとえばドイツとフランスでは大阪府から兵庫県へ行くようなもので国境すらない。

 スイスではEcholinkの友人HB3YEUジェーンを訪ねる予定である。ジェーンはご主人のジョージ、一人娘レズレーと一緒に、スイス中央部トリムバッハという小さな町に住んでいる。普通ならブレゲンツからトリムバッハまで車で3時間。しかし途中でシャフハウゼンにあるライン川にかかる滝を見物したおかげで、トリムバッハに着いたのは午後6時頃だった。予約しておいてくれたカテドラルの横の小さなホテルから、歩いて数分のところのジェーンの家がある。家に招かれてバーベキューをいただいた。翌日はジェーンたちと一緒にルツェルンからアルプスのフルカ峠を越えてローネ氷河へと遠出だ。訪欧の前にスイスでは山岳氷河を訪れたいと知らせておいたので、1日コースのプログラムをあらかじめ作ってくれてあった。運転はジェーン、ナビはジョージ、私と息子は後部座席、そして彼らの愛犬のノバはトランクのドッグゲージ。

ルツェルンのカペル橋

ルツェルンのカペル橋

 ルツェルンは音楽祭でも知られるが、フィーアヴァルトシュテッター湖の西端に位置する中世都市である。最初に私たちはルツェルンの氷河公園を訪ねた。約1万5000年前が氷河期の最後である。そのころまでイギリスやドイツやアメリカの北部は氷河で覆われていた。結氷のために海水面は低く、アメリカインディアンやインディオの祖先が地続きだったベーリング海峡を越えてアメリカ大陸に移住したのも氷河期の頃だ。スイス中部のルツェルンももちろん氷河におおわれていた。氷河の氷の下には、ときに水流が見られその水流によって石が運ばれ、その石によって地面に穴が穿たれ、石はその穴(ポットホール)の内部に落ち込む。ルツェルンにはこのような氷河の氷下水脈が穿ったポットホールが多く残されている。そしてその地が氷河公園となった。もちろん氷河そのものも多くの岩石を運搬し、ドイツ、イギリス、スイスなどには多くの氷河堆積物(モレーン)が見られる。氷河の浸食作用は河川の浸食作用より格段に強力で氷河の浸食した谷はU字谷と呼ばれ、U字型をしている。U字の底にあたる広い谷底とU字の側面に当たる垂直にそびえる谷壁をもつ。そして集落は谷底に発達する。アルプスの少女ハイジの里マイエンフェルトはそのようなU字谷の底に発達した集落である。またこのようなU字谷が沈下してそこに海水が入り込んだ地形をフィヨルドといい、ノルウェーのソグネフィヨルドは有名である。もちろんスイスには海水が入り込まないから、フィヨルドはない。

ローヌ川の源流

ローヌ川の源流

ローネ氷河

ローネ氷河

 ルツェルンの氷河公園を後にして、ローネ氷河までドライブする。スイスアルプスの懐に分け入る道である。途中フルカ峠を越える。フルカ峠は標高2436メートル。ライン川とローヌ川の分水嶺となっている。フルカ峠を少し下るとローネ氷河(Rhonegletscher)に到着する。Rhoneはフランス語ではローヌ 、ローヌ川の源流となる氷河である。気候の温暖化で氷河は毎年のように後退している。大気汚染による煤塵がこびりつき、氷河の表面は、雪かきをして道路脇によけられた残雪のような色をしている。氷河の前に観光案内所があり、そこから細い道がついていて、氷河の中にはいることができる。暑さのため天井から水がしたたり落ちる。とはいえ氷河の中は透明なブルーで神秘的な世界であった。2つの小部屋がくりぬかれており、そのうちの一つにワインの樽が2つおいてあったのは少し興ざめであったが。その後マイリンゲンを通ってルツェルンからトリムバッハに帰った。10時間に及ぶアルプスを巡るロングドライブで、途中、多くの牧場や村々、河川の源流や氷河湖を眺めることができた。しかし、残念なことに私は所々を覚えていない。旅の疲れからか時々うつらうつらとしていたためだ。バスに乗ったり、電車に乗ったりするとすぐ眠る日本人の典型だ。細い山道を私たちのために運転してくれているジェーンには、とても悪いことをした。このことだけが気がかりである。

ルツェルンの洪水

 私たちが日本に帰ってしばらくした後、中部ヨーロッパで大雨が降り洪水が起こった。日本も含めて最近の世界の気象は異常である。昨年はスペインやイタリアを熱波が襲った。3年前にはエルベ川流域で記録的な洪水が起こった。今年の洪水は、3年前ほどではないが、スイス・オーストリア・南バイエルンの地域が水浸しになった。南バイエルンのガルミッシユの被害が大きかったが、ルツェルンも観光名所カペル橋の一部が浸水したほか、市内でも冠水するところが多くあった。地球温暖化の影響はいたるところに及んでいる。スイスやドイツには吸血する蚊は、いなかったはずなのに、私はスイスで蚊に刺された。この分では、早晩、蚊取り線香や網戸が必要となることだろう。ニュー・オーリンズを襲ったハリケーン、カトリーナにしても周辺の高い海水温がハリケーンを発達させた要因のひとつである。

スイスの言葉

 トリムバッハを後にした私たちは、高速道路をジュネーブへと向かう。トリムバッハはドイツ語圏、ジュネーブはフランス語圏である。ジュネーブはドイツ語でゲンフという。ちなみにスイスの国語は4つある。一番話す人口が多いのがドイツ語で、スイスの東部から北部にかけての地域で話される。次に多いのがフランス語、西部の地域で話されている。イタリアに近い地域ではイタリア語が話される。そしてもっとも人口が少ないのは、レト・ロマンス語(ロマンシュ語)を話す人たち。ローマ時代から住んでいる人たちの言葉だが、話者が少なく消滅の危機さえある。もっとも話者人口が多いドイツ語でも、スイスのドイツ語はドイツの標準ドイツ語とはかなり異なる。ドイツにも多くの方言があるが、スイスでは、山一つ隔てると言葉が違うというくらい方言が多い。テレビのアナウンサーは標準ドイツ語を話すので、スイスの人々も私に対しては、標準ドイツ語に近いドイツ語でしゃべってくれるのだが、スイス人同士の会話はさっぱりわからない。

 ジュネーブへ向かって西へ西へと走っていると、あるところを境に急に言葉がドイツ語からフランス語に切り替わる。高速道路の標示もAusgang(出口)からSortie(出口)に変わる。ドライブインでも見事にみんなフランス語でしゃべっている。

 ジュネーブをへて、フランスのシャンベリーで一泊した。シャンベリーはフランスからイタリアに向かうTGVが停車する都市である。そこで11日間行動をともにした愛車ピカントをエイビス・レンタカーに返却した。

イタリア自慢の列車ユーロスター

 ここからはTGVでミラノに行く。TGVの座席は1等しか残っていなかった。私の主義に反するのだけれど、仕方がないので1等のミラノ行きを購入する。一人80ユーロの出費だ。TGVの一等はさぞ快適なのだろうと思っていたが、関西の私鉄の京阪特急くらいの座席だ。京阪特急はしかし特急券はいらない。新幹線だってビジネス特急なのだから、TGVでこれくらいの座席はまあ仕方がないか。で も一等でこれとはやはり少し幻滅だった。

 ミラノで途中下車してドゥモを見学し、フィレンツェに向かう。フィレンツェまでは、イタリアのユーロスターに乗る。2等で一人29ユーロである。シャンベリー・ミラノ間とミラノ・フィレンツェ間がほぼ同じ距離なので、この価格は高くはない。2等といっても座席はTGVの1等より上等だった。イタリアの切符は窓口で買う必要はない。イタリアの国鉄は進んでいて、切符を自動販売機で買うことができる。自動販売機で、行き先、時間、希望の列車、等級から座席まで指定できる。自動販売機は比較的すいている。現金以外にクレジットカードも使える。しかも6カ国語に対応している。にもかかわらず、切符売り場の窓口に長蛇の列ができているのがイタリアらしい光景である。

 ユーロスターはイタリアの誇る列車だけあって、座り心地がいい。列車には掃除人もいて、隣の車両から移ってくると、形だけ連結部のドアの窓を拭いて次の車両へ移動していった。午後8時頃フィレンツェに着いた。

 「イタリアに行ったら気をつけなさい」とよく言われる。凶悪犯罪はなくても騙しやスリなど日常だという。タクシーに乗ったらぼられるし、町を歩くとジプシーに財布をねらわれるという。ローマの地下鉄では、警官がが「手荷物にご注意」と回ってくるので、危ないことは危ないのだろう。しかしその警官が偽物ではないという保証もない。身分証を持った偽警官もいるとのことだ。けれども私は、イタリアが好きだ。昔行ったときの第一印象がいいのだろう。すでにロンドンでスリに遭っている私は、「取るなら取ってみろ」の気分である。陰湿なロンドンより明るくていい。

共和国広場

共和国広場

 フィレンツェでは、ホテルまでタクシーを利用した。いささか身構えていたのだが、女性の運転手ですこぶる正直。町の中心の共和国広場に面したホテルに無事到着した。広場を挟んで、わがホテルの斜め向かいに5つ星のサボイホテルが見える。しかし、宿泊している地域は全く同じ。このホテルも町のどこにも歩いていける格好の立地だ。広場のオープンカフェで夕食をとり、その後、横町の辻で行われていた大道芸人の芸を楽しんだ。

フィレンツェは屋根のない美術館

ドゥモ

ドゥモ

 フィレンツェは、メディチ家のコシモとその孫ロレンツォのもとで最盛期を迎える。彼らは、芸術家を保護したので、フィレンツェで初期ルネサンスが花開いた。ウフィツィ美術館には、ルネサンス芸術の集大成が収められている。ボッチチェルリの「春」や「ヴィーナスの誕生」もこの美術館にある。朝8時頃前に朝食を終えて、歩いて数分で美術館の前に着いた。しかしすでに長蛇の列。このままでは、午前中に入場できるかどうかあやしいものだ。そこで、並ぶのはやめて、予約券を買うことにする。ウフィツィでは、3ユーロ余計に出せば、予約前売り券を買うことができるのだ。それでも明日13時15分入場の券しかとれなかった。今日は町を見て歩くことにする。フィレンツェは小さな町なので、どこにでも歩いていける。フィレンツェに2泊したのでドウモをはじめ、あらかたのところを見物することができた。フィレンツェは屋根のない美術館といわれる。どの建物もどの小路も、まるで中世に迷い込んだようなたたずまいである。フェラガモやグッチやブルガリやプラダの店でさえもすでに中世の邸宅である。私たちにはとても中の商品にまでは手が出なかったが。

フィレンツェの街角

フィレンツェの街角

 私たちは翌日ウフィツィを堪能した。はじめは音声ガイドを借り、その指示に従ってひととおり絵画を鑑賞した。それで約1時間半。その後は音声ガイドをポケットにしまって、もう一度はじめから、自分の印象に残った絵画をじっくり見ていく。筆使いや隅のディテールなど、普段は絵など見ないから印象は新鮮だ。韓国や日本のツアーの観光客は飛ぶように私たちの横を通り過ぎていく。しかし、私たちには好きなだけ時間がある。午後も遅くなって閉館時間が近づいてくると入場者も減ってくる。それだけ人に邪魔されずにゆっくりと鑑賞できる。日本の美術展でルネサンス展でもやろうものなら、人が多すぎて肩越しにしかのぞけないし、たとえ近づけても絵の周りを厳重に囲ってあって絵のタッチさえもよく見えない。次から次と人が押し寄せ、ベルトコンベアに乗っているように出口まで押し出されて、結局一番よく絵を鑑賞できるのは、出口で売っている絵はがきにおいてである。ヨーロッパではそんなことはない。結局4時間ウフィツィを楽しんだ。そしてその日の夕方遅くローマへと向かった。

ローマのホテル

 フィレンツェからローマまでユーロスターで2時間。イタリアの特急は快適である。だんだんと南下しているのを肌で感じる。ドイツ・スイスでは9時頃まで明るかったが、ローマでは8時頃には暗くなってくる。気候もアルプスを越えると変化する。フィレンツェもそうだったが、ローマも乾燥していて暑い。ドイツ・スイスのホテルではクーラーは必要なく、実際装備していないホテルも多いが、イタリアでは中級以上のホテルでは、クーラーは標準装備だし、実際にクーラーなしでは過ごせない。ホテルは国鉄の終着駅テルミニのすぐそばである。マディソンホテルというこの3つ星のホテル、立地は便利なのだが、何しろ小さいホテルのくせに、やたら部屋が多くてまるで迷路みたいだ。

ローマの3つ星ホテル

ローマの3つ星ホテル

 私たちがインターネットで予約したのは、ツインルームだったのだが、ダブルルームをあてがわれた。息子と同衾する気はないので、早速フロントに言って部屋を変えてもらう。新しい部屋は、前の部屋とあまり大きさは変わらないが、しつらえが上等になっている。ジャグジーバスが付いている。電話の脇に置いてあった部屋の料金表を見ると、一泊229ユーロ(31000円)。一泊でインターネット予約の時の3泊分の値段にほぼ近い。フロントに行って、予約した時の値段でいいか確認する。OKとのことなので安心して、ジャグジーバスを使わせてもらった。

 ところで安宿の値段の高い部屋と、高級ホテルの値段の安い部屋とではどちらがいいのだろう。229ユーロ出せば、高級ホテルの普通の部屋に泊まれる。私は、同じ値段なら、高級ホテルの部屋を勧めたい。というのは、高級ホテルならロビーやフロントなどのインフラがしっかりしている。それにセキュリティーも安心である。日本語が通じるかもしれない。ヨーロッパのホテルは朝食込みの値段だから、そこでの朝食も満足できるものである。ただし夕食にホテルのレストランを利用すると高くつく。しかし日本の旅館のように1泊2食付きでないとお断りではないので、夕食を外で済ませばそれも問題ない。ところが安ホテルだと、全体の格がやはり貧相である。いくらいい部屋に泊まっていても、フロントの対応、朝食のメニューに差が出る。狭い部屋で、見晴らしが悪く、ジャグジーが無くても同じ値段なら高級ホテルに泊まってほしい。

 とはいえ私たちは、高級ホテルの安い部屋でさえ泊まれない。安いホテルの安い部屋を探しているのだ。マディソンホテルは3つ星のホテルにしては、料金が安いので、宿泊客もやたら多い。宿泊客の多い理由の一つに、正規の料金すなわちラックレートに対して、インターネット予約料金が非常に安いせいもあるかもしれない。ラックレートそのものがだいぶ水増しした額かもしれないけれども。そのため、インターネット大国、韓国からの学生旅行者が非常に多い。それも学生の卒業旅行の団体のようだ。朝8時に朝食のために食堂に行ったら、韓国語の洪水である。欧米人やわずかな日本人旅行者は小さくなっている。学生食堂のような賑やかさだったので、翌日からは朝食の時間を少し遅くして、難を免れた。朝食は悪くない。安宿によくあるパンとバターにコーヒー・ジュース、それに申し訳程度のハムとチーズといったコンチネンタルブレークファストでなく、バイキング形式すなわちビュッフェスタイルだ。ヨーグルトに最初から砂糖味が付いていて、甘すぎるのが難点だけれど。

歩き疲れたローマ

コロッセオ

コロッセオ

 ローマの散策をどこから始めようか。ローマは17年ぶりである。昔は、テルミニ駅にたくさんのタクシーがたむろし、客を奪いあっていた。でも今は地下鉄も整備され、テルミニ駅周辺には混沌とした状況は見られない。まずはコロッセオ。ここにも地下鉄の駅ができている。コロッセオは言わずとしれた円形闘技場である。ここでは多くの闘技が、時には、剣闘士奴隷と猛獣とのバトルショウが演じられた。目を閉じると映画『グラディエーター(GLADIATOR)』の一場面が思い起こされた。そして、コロッセオを後にして向かったのは、コロッセオから続くかつてのローマ帝国のオフィス街、フォロ・ロマーノ。ローマはやはりローマである。2000年を経てなお私たちに訴えるものを持つ。それは、そこで生き、死んだ人たちの歴史の重みだ。この門を通って将軍たちが凱旋したのだ。あるいは、今私が立っているその場所で、カエサルが、「ブルータス、おまえもか。」と言ったかもしれないのだ。

フォロ・ロマーノ

フォロ・ロマーノ

 さて、感傷にふけっていても、夏のローマは暑い。500ミリリットル2ユーロのペットボトルが何本も必要だ。自動販売機があればもっと安いのだろうが、ヨーロッパに自動販売機はない。観光地で買うとぼったくりだ。イタリアは、ユーロを使用しだしてから急に物価が高くなった。ドイツやフランスよりすべてが高いと思う。リラを使っているときは、物価の安い国だと思った。1500円あれば、簡単なコースが食べられたように思う。しかし、今はピザ一切れ700円する。フランスと比べて味も落ちたように感じる。それは偏見だろうか。

トレビの泉

トレビの泉

 バチカン市国はローマの中にある。サンピエトロ寺院はカトリック教会の総本山として世界各地から信者が集まってくる。もちろん観光名所でもある。隣にあるバチカン美術館は、システナ礼拝堂を含むキリスト教美術の宝庫である。ミケランジェロの「天地創造」や「最後の審判」は圧巻であった。バチカン市国だけでも1日は優に必要である。

カラカラ浴場

カラカラ浴場

 私たちにとって、ローマが旅の終着点である。地下鉄にもよく乗った。地下鉄の自動券売機はよく故障しており、お札が使えないことが多い。そこで小銭がなく地下鉄に乗れないときは歩いた。スペイン広場もトレビの泉も行った。カラカラ浴場も歩いた。暑くて喉もカラカラになった。息子が土産を買いたいというので 、なんだかわからないような小路も歩いた。露店でROMAと刺繍のしてある帽子を買って、帰ってよく見たら中国製だった。日本人でにぎわうローマ三越にも行った。ツアー客がよく立ち寄る店である。ここでは、少し高いが日本人好みの土産がよくそろうし、日本語も日本円も通じる。ヨーロッパ最後のローマでは、ともかくよく歩いた。そしてローマに着いて4日目の夜、再び東洋に帰る機中の人となった。