QUUの歴史

開局の頃

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無線局免許状

 その頃は「ハムになろう」というコピーをよく見かけた。少年雑誌の広告欄には通信教育の宣伝が躍っていた。科学の時代だっ た。日本は東京オリンピックを成功させ、大阪万博の準備に追われていた。当時はハムの免許の初級クラスとして電話級と電信級が存在し、講習会を受講することによって免許を取得することができた。

 とりたてて電気や電子が好きというわけではなかった私がそのころなぜハムになろうとしたのか。時代の 影響もあるだろう。無線をし ているというだけで、かっこよかったのだ。しかし携帯電話もインターネットもない時代、遠く離れたところと通信するにはアマチュア無線が唯一の方法だった。1967年、私はまだ中学一年生、友達に勧められて電話級を冬の講習会で取得した。電信級は翌年の4月に行われた国家試験で取得した。そして、1968年7月JA3QUU局を開局した。当時は無線機を自作する人が多く、日本のメーカーから販売されている無線機はそれほど多くなかった。キットの形で販売されている無線機もあり、回路図と組立図を見ながら半田付けをして無線機を完成させていくという方法もあった。アメリカ製の無線機は無線家のあこがれだったが、ほとんどのハムには手が出るものではなかった。

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quu-2 FL-50(上)FR-50(下)

 私は無線機を作る技術がなかったので八重洲無線のFL-50とFR-50という送信機と受信機で開局した。当時の日本のアマチュア局は7万局くらいで、世界第2のアマチュア無線国であったが、AM変調の局が多く、SSBの局はそれほど多くはなかった。しかしその頃世界はすでにSSBに変わり始めていた。FL-50とFR-50はSSBの機械で、私はその点世界に後れをとることなく海外とも交信できたし、現在まで長く無線を楽しむ原点となった。

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大阪万博(太陽の塔)

 大阪で開催された国際フェスティバルといえば、まず大阪万国博覧会をあげねばならない。アポロ12号が持ち帰った「月の石」を 展示していたアメリカ館、「太陽の塔」の内部に広がる日本館、多くの国際館や企業館。ディズニーランドとUSJをあわせた以上の賑わいで、高校生の私は、多くのパビリオンに2時間以上かけて並んだ。飛行機のフライトシュミ レーションがあって見事着陸に失敗したのは日立グループ館だった。資本の自由化第1号として、ケンタッキーフライドチキンの実験店が万博に開店した。これほどおいしい「かしわ(鶏肉)の唐揚げ」はそれまで食べたことがなった。息子たちとKFCのチキンを食べるたびにそのときを思い出す。万博会場の片隅にサンフランシスコ館があり、そこにアマチュア無線局JA3XPOが開設されていた。ゲスト運用ができ、私は数回運用を楽しん だ。それも今ではなつかしい思い出となっている。1970年の春に2級の資格を取った私は、当時は電信が得意だった。電信だと英語をしゃべる必要がないので、JA3XPOからも海外局とも多く交信した。

 大阪万博は夢の万博だった。科学万能の時代の幕開けで、すぐにでも鉄腕アトムが登場しそうであった。1970年、まさに日本中が興奮していた。しかし大阪万博の頃、日本は公害にむしばまれていた。四大公害訴訟が提訴され、赤潮や光化学スモッグが頻繁に発生した。私の通っていた高校の校庭には光化学スモックの発生を示す黄旗や赤旗がしょっちゅう揚がった。

大学時代

 1973年、京都の大学に入学した。大阪の自宅から通えないこともないが、下宿にあこがれていた私は洛北の修学院の学生アパートで暮らすこととなった。風呂も台所もない4畳半一間の部屋だ。ラジオはあったが、テレビはなく、冷蔵庫は古物商で安く仕入れたいつ壊れてもおかしくない代物だった。よく通った出町柳のパチンコ屋では、井上陽水や、かぐや姫がバックグラウンドミュージックとして流れていた。一緒に風呂屋に行く相手のないことをのぞいては、「神田川」の世界だった。下宿の近くに学生相手の一善飯屋があって、そこの看板娘が「おおきに」と挨拶してくれる。それを聞くのが楽しみだった。

 関西以外の人には、京都弁と大阪弁の区別はつきにくいだろうが、この二つは明確に区別される。大阪では「おおきに」の「おお」にアクセントがあるが、京都では「きに」にアクセントがある。大阪では人間は「泣いてはる」が、鈴虫は「鳴いている」。京都では、人間も「泣いてはる」が、鈴虫も「鳴いてはる」。大阪人からすると、鈴虫にまで敬語を使っているように聞こえてしまう。奥ゆかしいといえば奥ゆかしい。

 ところで「京のぶぶ漬け」という言葉がある。玄関や客間で、「まあゆっくりしてぶぶ漬け(茶漬け)でも」といわれたら、その言葉とは裏腹に、実際は早く帰れという催促であるという。事の真偽は知らないが、なんとなくわかるような気がする。なかなか京都人の心の内側は見せてもらえない。見えない壁を感じてしまうのだ。私の場合、特に女性がそうだった。玄関先でうまくあしらわれて、玄関から中に入れてもらえない。京都人は大人なのだ。しかしこれは、京都の女性の問題ではなく、実は私のほうに問題があったに違いない。その点ではアホで素直な大阪人のほうが、どちらかというと私には親しみやすい。言葉の問題からずいぶん外れてしまった。京都については、もうこの辺でお開きにしても「よろしおすか」。

 下宿してしばらくののち、長い物干し竿を買った。アンテナマストにするためだった。それをアパートの北の柵に固定し、てっぺんに給 電点となる波形碍子をくくりつけた。7メガヘルツの逆V型ダイポールアンテナの完成である。リグはTS510。もはやサイクル20のピークを過ぎていた。まだ私の運用は、電信が中心で、外国局とも交信したが、困ったことに、パワーを出すとアパートの漏電感知器のケーブルに電波が乗り、けたたましくブザーが鳴り出す。そこで夜中こっそり感知器の電源を切って無線を行った。どうして学生アパートに漏電感知器が設置されているのかわからなかったが、結局、大家の知るところとなり、2年足らずでその下宿を追い出された。

 その後は、銀閣寺のそばに一軒家を借りたり、間借りをしたりと、大学・大学院を通じて10 年近く京都で暮らすこととなった。あまり勉強しなかったので京都時代は結局のところ、体のよいモラトリアム時代だった。1978年に1級の資格を取ってからは、サイクル21のコンディションもよくなって、電信よりも電話が主体になり、週末には大阪の自宅に帰ってヨーロッパの局と交信することが多くなった。

JA3QUU/DL

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DF1OM

 ドイツのDF1OMギュンターとは、本当によく話をした。私の下手なドイツ語に根気よくつきあってくれ、天気の話や家族の話などたわいのないことを週1.2回スケジュールを組んで話した。スケジュールの時間の前にはもちろんカンニングペーパーを作って本日のトピックスについて練習した。ギュンターは、私よりちょうど20才年上で、娘さんが2人おり、北ドイツのハノーバーに暮らしている。非常に温厚でよく気のつく紳士で、話していていつも豊かな気分にさせてもらった。ギュンターはduで話した最初のドイツ人である。

 ドイツ語では、あまり親しくない人にはSieで呼びかけ、家族など親しい相手にはduで呼びかける。本当かどうかは知らないが、1970年代の終わり、duを使うには、男女であれば関係ができてから、男同士だと腕を交差させてビールジョッキを飲み干してからといわれていた。Sieとduとは相手との親近感の違いであって、相手を尊敬しているかどうかとはあまり関係がない。旅行では初対面の人と話すのでSieを使うことが多く、テレビやラジオのドイツ語講座ではSieで練習する。私がしばらく通った京都のゲーテ・インステチュートの会話でもSieを使っていた。私がドイツ人と交信を始めた70年代の終わりには、無線でもほとんどSieで話していた。そしてそれが普通だと思っていた。

 しかし、近年Sieとduの使い方が変わってきている。Sieだと疎遠な感じを受け、親近感を覚える相手には最初からduを使うことが多くなった。アマチュア無線の世界でも、初対面の相手にもduを使いだした。同じ無線仲間というわけだ。現在、私は初めての交信でもduを使うし、相手もduで話しかけてくる。たまに年配のハムでSieを使う人がいるが、話していて何となくしっくり来ない気がする。

JA3QUU/DLの免許(1981)

JA3QUU/DLの免許(1981)

 ギュンターと交信しているうちに、ドイツに来ないかという話になって、1981年の早春、6週間ヨーロッパに出かけた。ギュンターの家では3週間お世話になった。ドイツでは、外国の無線家にもゲストライセンスを与えてくれ、私は全バンド750W で3ヶ月間運用できるJA3QUU/DLの免許を取得した。ギュンターの家の設備は、リグはIC731、アンテナは3エレメントの八木アンテナだった。ドイツで運用する日本の無線局はまだ珍しく、サイクル21のコンディションがよかったこともあって、CQをだせば多くの日本の局からひっきりなしに呼ばれたし、ドイツ国内の局とも数多く交信した。こんなに立て続けに呼ばれたことは今までなく、本当に楽しい経験だった。

 当時、2度の石油危機を乗り切って、日本はジャパンアズナンバーワンと持ち上げられていた。優秀な製品が安価だというので、ドイツでもOPELやVWからホンダやトヨタに乗り換える人が多くいた。しかし実態はどうだろう。工業製品は立派でも、インフラという面で見れば、ドイツの方が圧倒的に優れているように見えた。ギュンターの家は大きい方ではなかったが、居間は家族全員が集ってもなお十分なほど余裕があり、ダウンライトやアップライトの照明が施され、質素だが堅牢な家具が整然とおかれてあった。暖房はセントラルヒーティングで、家中どこにいても薄いセーターを着ているだけで快適だった。街に出れば、緑が豊かで、整然と落ち着いた家並みが広がっていた。アウトバーンは当然無料で、アウトバーンに沿って走る田舎道は、緑の絨毯のなかを抜けていく快適なドライブコースだった。テレビの横に新製品が所狭しと並べられ、石油ストーブで暖をとる日本の家屋とは大違いだった。ガン細胞のように止めどなく膨張していく日本の街並みと日本の経済に一抹の不安を覚えることがあった。

統一前のベルリン

 ギュンターのいるハノーバーからベルリンを訪問したことがある。ベルリンは不思議な街だ。1981年でもまだ、戦争の影を引きずっていた。西ベルリン第一の繁華街クーヘンダムは何か退廃的で、リリー・マルレーンが聞こえてきそうだ。西ベルリンは戦勝国アメリカ、イギリス、フランスが共同管理している。そしてソ連が管理しているのが、東ベルリンだ。1961年東西ベルリンを隔てる壁が突然作られて以来、ベルリンは2つに分断された。西ベルリンから東ベルリンに行くには二つ方法がある。一つは「チェックポイントC」を通って徒歩で東ベルリンに入る方法、もう一つは地下鉄で「フリードリヒ通り」から地上に出て東ベルリンにあがる方法である。地下鉄は西ベルリンから東ベルリンに入りまた西ベルリンへと循行している。しかし東側のいくつかの駅は閉鎖され、「フリードリヒ通り」駅だけが、東ベルリンで降車できる唯一の駅である。ブランデンブルク門に通じる大通りの下にある「ウンターデンリンデン」駅もブロックで出入り口が閉鎖され、列車はむなしく通過する。地上に出てみれば、東ベルリンのテレビ塔の展望台から、ウンターデンリンデンの大通りが、ブランデンブルク門を越えてすぐのところで、壁によって分断されているのがよく見える。西ベルリンの路面電車は、線路は東ベルリンへと続いていても、東ベルリンに入ることなく境界線で折り返し運転している。

2マルク(東ベルリン・西ベルリン)

 私は、24時間ビザを取得して、「チェックポイントC」から東ベルリンに入った。25マルクを1対1のレートで強制的に両替させられた。「チェックポイントC」の横には、ベルリンの壁博物館があって、壁が作られた時期に東から西に脱出しようとした人たちのモニュメントとなっている。東ベルリンでも壁の近くの街並みは、時間が止まったようである。くすんだ町並みの通りには人の気配が見られない。東ベルリン自慢のテ レビ塔の上にレストランがあって食事をした。びっくりしたのは、ナイフとフォークがアルマイトだったことだ。コインも東ベルリンのものはアルミ製だ。従って東ドイツのコインは西ドイツでは通用しない。デパートを覗いてみたが、生活必需品は西側と較べて安いが品質は劣り、テレビは高かった。試しにシャンプーを買ってみたが、あまり泡は立たなかった。

 東ドイツに親戚のいるギュンターは、自分の生きているあいだに東西ドイツが統一されるとは思ってもいなかったようだ。しかし、1989年壁は崩れた。私は、いつか統一されたベルリンを再訪してみたいと思っているのだが機会がない。ソニーセンターもダイムラーシティも未だ知らないでいる。

アマチュア無線クラブ

 大学院を出て大阪の高校に勤めた。アマチュア無線のブームはまだ続いており、多くの高校にアマチュア無線クラブがあった。私の勤めた高校は戦前からの古い高校だったが、アマチュア無線クラブは途絶しており、本業以外の最初の仕事は、古いコールサインを復活してアマチュア無線クラブを作ることだった。同好会で3年我慢して、ようやく無線部を作った。

 同好会の時からもこっそりとフィールドデーコンテストに参加していたが、無線部となったその年、晴れて公式に夏合宿を行った。もちろんフィールドデーコンテストに参加するためだ。フィールドデーコンテストとは、発電機などを電源にして、野外に設置した無線局で午後9時から翌日午後3時までの間に何局交信できるかを競う競技である。電波伝搬のロケーションがよくて、観光的要素もあるところということで、四国の五色台に合宿場所を定め、香川県立五色台青少年野外活動センターに申し込んだ。大阪の高校は、地方の高校と較べて自由な校風で、規則に縛られる経験が少ない。活動センターに申し込むときに、コンテストの概要は説明してあったが、詳しい時程表の提出を求められた。実際のコンテストでは、寝る時間もなく、交代で一局でも多くの交信を成立させなければならない。夕食は一斉に食べられるが、朝食や昼食は手の空いているものから、そそくさとすますこととなる。朝のミーティングに参加したり、団体行動を一斉にとることは事実上むつかしい。結局センター規定の時程表とも提出した時程表とも実際の行動を合致させることはできなかった。また活動場所に関して、一晩中起きていることをセンターに伝えたところ、他のセンター利用者のじゃまにならないよう宿舎から離れた丘の上で活動するように指示された。皆でアンテナと無線機と発電機を運び上げた。しかしご承知のように無線機の周りは発電機の回る音と大声の交信で騒がしい。運の悪いことに丘の上には牛舎があった。そこで今度は丘の上で乳牛を飼っている酪農家から「ミルクが出なくなる」とセンターに苦情が来た。これは酪農家の生活に関わることだから、仕方がない。またもやアンテナと無線機と発電機を持って移動だ。他の団体とは異質の集団だったのだろう。センターの職員に奇異の目で見られて、なかなかシビアな合宿だった。

 しかし、センターからの帰りは、高松で栗林公園に寄ったり、ガイド本に紹介された讃岐うどんの店で食事をしたりと優雅な旅とな った。往復とも関西汽船のフェリーを使ったので、のんびりとした船旅の初合宿であった。コンテストはもちろん入賞できなかった。

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無線部OB

 毎年、ゴールデンウィークの頃に、当時1年生だった部員達が私の家に遊びに来て、庭でバーベキューをすることになっている。もうあれから何年経つだろうか、彼らも結婚して子どもができ、立派な中年である。またそれ以外にも、その後クラブの部員として卒業し ていったOBやOGが集まって、毎年大阪のどこかで忘年会をひらいてくれる。彼らと歓談するのも年末の楽しみである。

無線からインターネットへ

ティモ

 1996年河内長野に転居した。それまで、公団住宅のベランダに小さなアンテナを設置して、無線を続けていたのだが、転居 によって狭いながらも庭にアンテナを張る余地が生まれた。15メーターのタワーの上に14・21・28MHz用の5エレメント八木アンテナと、7・10・18・24MHz用のダイポールアンテナを設置した。これによって国外局と容易に交信できるようになった。ちょうどサイクル23の ピークの時期だった。この時期に交信したドイツのベルントとティモがそれぞれ我が家を訪問した。ベルントは私と同年輩でルフトハンザの職員だったが、日本滞在の折、日本の家庭も見てみたいとのことで、私の家で一緒にすき焼きを食べた。ティモは日本の企業でインターンシップを受けることになっている学生で、4日間我が家に滞在した。子ども達も、うち解けて、一緒に観心寺や延命寺までサイクリングを楽しんだようだ。ティモはその後関東で研修を受けたが、日本の温泉がたいそう気に入り、温泉フェチになったということだ。

 サイクル23のコンディションがよかったのは2001年くらいまでで、それ以降はだんだんと交信できる局数も限られてきた。そんな折、普及してきたのがインターネットだ。初めは電話回線を利用したメール交換くらいしかできなかったが、やがてアマチュア無線の通信に応用されるようになった。iLINKやEcholinkが誕生したのはその頃である。私の交信もインターネットを利用したVoIPが主流になってきた。このような中で2008年7月、JA3QUUは、開局40周年を迎えた。

インターネットから無線に回帰

 Echolinkは素晴らしいシステムである。無線機がなくても、アンテナがなくても、安定して外国のアマチュア無線家と話ができる。初めのころは、たくさんの無線家といろいろな話題について語り、現在までも続く多くの知己を得ることができた。しかし、最近では、マンネリ化してきた感をぬぐえない。
 
 このようななか、サイクル24のコンディションも2012年ころから上昇し、100Wのパワーでも無線機を使って国外局と楽に交信できるようになってきた。私も2014年の春に定年となり、仕事は続けているものの精神的には少し余裕ができたせいもあって、短波帯でよく電波を出すようになった。これからは、とりあえず無線機やアンテナを整備して、生涯の趣味としてキングオブホビーを楽しんでいきたいと思っている。