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河内長野の位置

中世の畿内

中世の畿内

 河内長野は、東の金剛山地と南の和泉山脈からそれぞれ南と東にのびる丘陵が大阪平野で交わる結節点に位置している。したがって起伏にとみ、標高のそれほど高くない多くの丘や谷が多く存在し、古くからの集落は谷筋に、高度成長期に開発された住宅は丘陵に広がる。

 私の家は昭和50年代に開発された丘の上に建っており、北北東から北回りに南東まで視野が開け、15メートルのアンテナタワーに登ると大阪湾が見渡せる。金剛山のふもとなので緑も比較的豊富で、夏の気温も大阪市内より2、3度低く、あまりクーラーを使う必要はない。ただし駅からは坂道を登って来なければならず、そこで一汗かくことは必定である。そして冬は大阪市内より確実に寒い。2本の私鉄で大阪市内と結ばれており、30分から45分で大阪の南のターミナルに到着する。現在では約12万人の人口を持つ大阪のベッドタウンである。

真言密教

金剛界曼荼羅

金剛界曼荼羅

 河内長野は高野山と関係が深い。高野山は河内長野 よりさらに25キロ南 に位置する。唐から帰朝した空海は、816年高野山に金剛峰寺を創建した。真言宗は大日如来が衆生に密かに真理を教える密教である。小鳥のさえずり、小川のせせらぎ、星の輝き、森羅万象、大日如来の説法である。修行者は、身に印形を結 び、口に真言を唱え、心に大日如来を念ずることにより、大日如来の説法を会得し、そのまま大日如来と一体となって宇宙の真理を悟る。宇宙の真理を悟った空海は、今も金剛峰寺の奥の院に生きている。修行の実践を重んじる真言密教は、修験道とも結びつき、吉野や熊野の地に山岳宗教を生み出した。また、生きながら大日如来と一体になる「即身成仏」は、インドのウパニシャッドの「梵我一 如」の 思想に通じる。

三日市宿

高野街道里程標

高野街道里程標

 金剛峰寺は11世紀に最盛期を迎える。上皇を始め多くの貴族が京都から高野山へと参詣した。主要な2本の街道、西高野街道と東高野街道が河内長野でひとつになり、高野街道となって、和歌山県の橋本を経由して高野山へと向かった。高野街道となって最初の宿となる三日市は高野山に参拝する人たちの宿場町として栄えた。19世紀初めには、旅籠屋が70数軒並んでいたといわれる。三日市宿の南端に「西、高野山女人堂江八里」「北、是より三日市宿」の里程石が残る。高野山と関係の深い河内長野には、真言宗の古刹が多い。

観心寺

観心寺山門

観心寺山門

 観心寺は、私の家から歩いて30分のところに位置し、週末の散歩コースの一つである。同寺は役小角が奈良時代に創建したと伝えられ、当初、雲心寺と称した。その後、空海が如意輪観音を本尊として観心寺の寺号を与えたという。境内に入るのは無料のところが多い河内長野の寺院の中で、観心寺は異色の存在で入山料300円を支払 い山門を入る。勾配の緩やかな石段を登ると、正面に朱塗りの金堂が現れてくる。金堂は国宝で、和様に禅宗様を加味した折衷用の建築である。観心寺は、楠木正成ともゆかりが深く、楠家の菩提寺でもある。また本堂には、平安時代初期に作られた本尊 の如意輪観音像がまつられている。近くに住んでいるのに、寡聞にして私はまだ拝観したことはないが、平安密教彫刻の白眉であるといわれる。4月17・18日の2日だけ一般公開される。

 観心寺はこれくらいにして、もっと大きな「関心事」、中世に画期的な「般若湯」の製法を発明した金剛寺に筆を進めよう。

天野山金剛寺

天野山金剛寺

天野山金剛寺

 奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開いたとされる金剛寺は、真言宗御室派の寺院で、高野山が女人禁制であった頃、女人高野とも呼ばれた。南北朝時代には南朝方の勅願寺とされ、後村上天皇の行在所ともなった。また、北朝の光厳・光明・崇光上皇が南朝方にとらわれていたときに行在所とされたこともあった。その後、戦火にも遭うことがなく、貴重な文化財が数多く残されている。

金剛寺の天野酒

 酒の醸造はバイオを用いたハイテク技術で、学問の中心でもあった大寺院では多くの酒を醸造していた。中世はまさにこの僧坊酒全盛の時代である。しかし、まだ技術が未熟で、実際には多くの酒が雑菌によって腐敗していった。すなわち、醸造の際に酵母を含んだ酒母を大量の原料(麹・蒸し米・水)に一度に加えるため、酵母菌の働きが急速に衰え、細菌などの増殖に都合のよい条件をつくってしまうこととなる。この腐敗をさけるため、醸造途中で木灰を加え、酒をアルカリ性することによって雑菌の繁殖を抑えた。このような酒が灰持酒で、それが当時の一般的な酒造法だった。しかし灰持酒は次第に赤みを帯び、独特の風味を持つようになる。現在の日本酒のような透明で澄んだ味にはならない。

天野酒の造り酒屋

天野酒の造り酒屋

 これに対して、金剛寺で、現在の酒造で用いられるような段掛法が発明された。段掛法とは、酵母菌の急激な減少よる雑菌の増殖を避けるため、醪の原料を少しずつ数回に分けて酒母に加え、酵母菌の数を保ち酵母菌の働きを衰えさせない方法である。段掛法によってさらっとした澄んだ酒ができあがるのである。金剛寺でこのようにして醸造された酒を天野酒といい、数ある僧坊酒の中でも高い評価を得ていた。なかでも豊臣秀吉は天野酒を愛飲し、たびたび使者を遣わしては買い求め、良酒醸造に専念することを命じた朱印状を下付した。その朱印状は現在も金剛寺宝物館に展示保存されている。

 天野酒の製法は、現代に受け継がれ、河内長野の造り酒屋で醸造されている。やや甘い酒であるが、私の愛飲する酒である。